現在丑の刻です。西洋の悪霊の話をします。この手の話が不好きな方々は日中に読むか読む事を断念して下さい。
高校卒業間近の二月でした。この時期の自分は無気力ではありましたがPCでの海外サイトの回遊はしていました。青少年が興味を抱く類の怪し気なサイトではありません。呪術、特に呪殺について関心が有り調べていました。
特に殺害したい対象は存在していません。実際に死ぬのか否かのみ、試したかったと言っておきます。……誰が実際に死ぬかどうか?論を俟たず、自分がです。
ロシアのBBSで魅惑的な呪法を見付けました。その方法は【スペードの女王】という名を冠していました。
チャイコフスキーのオペラにも同名の作が有ります。作家アレクサンドル・プーシキンの短編のオマージュと言えます。しかし、この呪術はそれらとは全く異なる内容でした。
詳細は危険な為に省きますが鏡に血で階段を描き、ロシア語の呪文を詠唱する事でスペードの女王と呼ばれる悪霊が出現します。スペードの女王は召喚した者の願いを叶える力を有するが、叶えた直後にその者を呪い殺すという内容でした。何を以て割り出したのか不明瞭ですが、致死率100%とあります。
イタリアの心霊研究会にて検証が行われ、六人のメンバー全員が死亡。その記録だけは照然たるものの様でした。
スペードの女王と呼ばれる悪霊は生前、孤児院を経営していたが女児は娼館に男児は僻地の労働力として売り払い財を築いていたものの時の権力者に事実を暴かれ処刑され逆恨みをしている……といった謂れが有るとの事。
前置きはさて措き。
高校の図書館にて放課後に時間を潰し、トイレの鏡に向かい合いました。十七時前。明かりを消せば雪国の二月の夕刻は薄暗闇に侵食されています。冷気が辺りを支配し、スペードの女王なる者が現れても不思議の無い情況に在りました。
右手の中指にカッターの刃を食い込ませると、鏡に階段の図を描く程度の出血が望めました。気温が低い為に血の出が悪く、描いている途中で二度目の傷を作る必要が生じました。描き終えると呪文を暗唱しました。
変異は直ぐに起き、鏡の彼方に華の姿が視えました。自分の一念は華に会いたいという事のみであり、彼女は自ら死んだのだろうと考えていた時期です。願成し、彼女の霊が来たのだと驚愕しつつも恐怖に似た歓びが湧き上がり。しかし。
鏡の中の自分の固まった表情に目が移り、次に鏡の中の自分の右手が全く出血していない事に気付きました。依然として出血している実際の右手を動かしてみても鏡に映る自分は動きません。華の霊らしき者は鏡の中の自分の隣まで迫って来ていました。
息がかかる程の距離で鏡を見ると、彼女の目ではないと分かりました。スペードの女王と呼ばれる霊が華の姿を真似ているのだと気付き「お前は華ではない、お前には願いを叶える力が無い。即ち俺を殺す力も無い」と英語で告げました。
ロシア伝承のスペードの女王が英語を解するのか定かではありませんが、その場からは何事も無く離れる事が出来ました。
鏡の血を拭い右手指を水で洗いハンカチで包み手袋を着ける間、鏡の中の自分は微動だにせず視線だけを動かすという気味の悪い表情をしました。その隣で華の姿をした霊が同様に視線だけでこちらの動作を追っています。
霊で良いから華と会いたいと願っていたのだが、期待外れでした。意識するよりも期待が大きかったせいか激しい落胆に襲われました。
窓・生徒用玄関のドアに自分が映る度に先程の華の姿の霊が現れます。その隣の鏡に映る自分は正面を向いたまま無表情で動きません。
自宅に帰り真っ先に洗面所の鏡を見ると鏡の中の光景は、平時と変わらず。クリスチャンホームである自宅には、あの霊は入る事が出来ない様でした。
この後二十歳で華と再会する迄の期間、水面や鏡、それに類するものには動かない自分と華の姿に似せた霊が現れ続けました。それ以外の障りが起きない為に放置していました。
実物の華に会った途端、鏡の情景は元に戻りました。こちらが手を挙げれば鏡の自分も当然ながら手を挙げます。
あれは何だったのだと二十歳の華に電話で尋ねた所、彼女は静謐な声で密かに笑いました。
『何でそんなに危険な事をしたの?魂を半分握られたから鏡の多嘉良が動かなくなったのよ。スペードの女王に喧嘩を売った人なんて世界中であなたしか居ないんじゃない』
スペードの女王は、華を呼べませんでした。華の姿を完全に真似する事も出来ませんでした。甚だしく未熟で精神の定まりの悪い往時の自分を騙す事すらも不可能でした。
華に会いたいと一心に願っていた頃を追懐すれば、感に堪えません。あらゆる呪術を試し今を獲ました。
この呪法は禁忌ですので弟子にも伝授しません。